第七章 ありがとうを伝える日。
~休むことも、旅の楽しみ~
朝、目が覚めた。
クラウンエステートのリアゲートを開けると、
ひんやりとした朝の空気が流れ込んできた。
空を見上げる。
雲ひとつない青空だった。
風も穏やかで、まさに絶好の釣り日和である。
「今日は良さそうだな。」
思わずそんな言葉が口をついた。
昨日少しだけ残しておいた餌もある。
本来なら、今日こそ浜名湖のポイントへもう一度向かうつもりだった。
シロギスを釣る。
そして、そのついでに、
再来週に予定している釣り部合宿の釣り場ももう一度確認する。
そんな計画だった。
ところが、昨日立ったあのポイントを思い浮かべた瞬間、気持ちが萎えた。
竿を何度振っても反応がない海。
「今日は釣れるかもしれない。」
そう期待して投げ続けた数時間。
そして最後に釣れた一尾のメゴチ。
あの静かな海の景色が、頭から離れない。
「でも今日は違うかもしれない。」
そう思う自分がいる。
すると、もう一人の自分がすぐに返事をした。
「昨日もそう思って行ったよね。」
思わず苦笑いする。
「確かに。」
しばらく黙ってサイトを見回した。
数日間使い続けたキャンプ道具。
潮風を浴び続けたロッド。
砂が入り込んだリール。
クーラーボックスには少しずつ残った食材。
サイトも、どことなく旅の疲れが見えていた。
「帰ってから全部片付けるの、大変だろうな。」
そう呟いた瞬間だった。
もう一人の自分が、いつになく元気な声で話しかけてきた。
「今日は休みにしよう!」
「釣りは昨日頑張ったじゃないか。」
「今日は道具たちを休ませてやれよ。」
「お前だって、少しゆっくりしたらどうだ?」
その言葉を聞いた瞬間、不思議なくらい肩の力が抜けた。
私は笑いながら答える。
「そうだな。」
「今日は釣りは休み。」
そう決めた途端、このキャンプ場の景色が少し違って見えた。
芝生はきれいに刈り込まれ、サイトごとに備え付けられた水場も使いやすい。
蛇の心配をしながら歩いた伊良湖とは違い、ここはどこか穏やかだった。
まずはロッドを一本ずつ伸ばす。
サイトの水場でゆっくりと潮を洗い流す。
リールも丁寧に水洗いする。
柔らかい布で水分を拭き取りながら、自然と声が出た。
「釣れなかったけど、ありがとう。」
この旅では期待したほどシロギスは釣れなかった。
でも、雨の日も、真夏の日差しの中も、
一緒に竿を振り続けてくれた相棒たちである。
「また次もよろしくな。」
これは釣行を終えるたび、いつも心の中で掛けている言葉だった。
もちろん返事はない。
それでも、
「任せとけ。」
そんな声が聞こえたような気がした。
ふと顔を上げる。
そこにはクラウンエステートが静かに停まっていた。
今回の旅は、この車を購入したことから始まった。
約2メートルのフルフラットになる荷室。
長身の私でもゆっくり眠れる。
「この車なら、一週間旅ができる。」
そう思ったあの日が、すべての始まりだった。
まだ旅は終わっていない。
それでも、この数日間、文句ひとつ言わず私を運び続けてくれた。
「ありがとう。」
今度はクラウンエステートへ向かって小さく呟く。
風が少し吹いた。
その風を受けて、長老タープがゆっくりと揺れた。
見上げると、青空へ大きく翼を広げるその姿は、
伊良湖で何度も風を受けながら、
それでも静かに私を守ってくれた、
あの日と同じようだった。
「まだまだ現役だな。」
そう言うと、
タープが少し誇らしげに胸を張って、
「どんなもんだい。」
そう言ったような気がした。
思わず笑ってしまう。
「参ったよ。」
「今回、一番見直したのは、お前かもしれない。」
旅へ出る前、このタープは今回限りで引退させようと思っていた。
でも、その考えはもうどこにもなかった。
これからも、まだ一緒に旅ができそうだ。
そんな気がしていた。
ロッドやリールの手入れを終える頃には、すっかり気持ちも軽くなっていた。
「さて、今日は何を食べよう。」
クーラーボックスの中を確認しながらクラウンエステートへ乗り込む。
今日は釣りをするつもりはなかった。ただ、海だけは見ておきたかった。
午前中のうちにスーパーで足りない食材を買い足し、
その足で太平洋側の外洋の様子も見に行くことにした。
「もしかしたら…。」
そんな期待がまったくなかったと言えば嘘になる。
しかし、海を眺めても昨日までと大きく変わった様子はなかった。

「今日はこれで良かったんだ。」
そう口にすると、不思議なくらい気持ちは穏やかだった。
帰り道、以前にも立ち寄ったことのある漁港の売店へ寄ってみる。
店先を眺めていると、一つの商品が目に飛び込んできた。
大きなマグロのカマである。
「これはうまそうだ。」
迷わず手に取った。
さらに子持ちシシャモも買い物かごへ入れる。
昨日は少し奮発して牛肉を楽しんだ。
今日は海の幸で贅沢をしよう。
そんな献立が自然に決まった。
キャンプ場には、まだ私一人だけだった。
辺りは静かで、風が木々を揺らす音だけが耳に届いていた。
タープの下へ椅子を運び、
今日は、キャンプ場でスーパーで買ってきた惣菜をつまみに、
昼からビールを飲もうと決めていた。
冷えたビールを一本開ける。
プシュッ。
昼間から飲むビールは、どうしてこんなに美味しいのだろう。

もう一人の自分が笑っている。
「ほら。」
「毎日必死に釣りをするだけが旅じゃない。」
私は缶を少し持ち上げて答えた。
「そうだな。」
「こういう日も悪くない。」
風が芝生を渡る。
長老タープが心地良さそうに揺れている。
クラウンエステートも、その横で静かに休んでいた。

旅へ出る前、この組み合わせを何度も想像していた。
でも、実際にこうして眺めてみると、想像以上に絵になっていた。
「やっぱり連れてきて正解だったな。」
そう呟くと、
長老タープがまた少し揺れた。
まるで、
「だから言っただろ。」
そう笑っているようだった。
夕方になり、まずはBBQの準備を始めた。
菓子缶BBQコンロに炭を並べ、あとは火を点けるだけの状態にしておく。
風呂から戻ったら、すぐに焼き始められるようにしておきたかった。
準備を終えると、隣接する温泉へ向かった。
風呂から戻ると、用意しておいた炭に火を入れる。
パチパチと炭が音を立て始める。
いよいよ今夜のBBQの始まりだ。
今夜の主役はマグロのカマ。
網へ載せた瞬間、思わず笑ってしまった。
「大きすぎるだろ。」
菓子缶コンロから豪快にはみ出している。
「お前、本当に焼けるのか?」

向きを変えながら、少しずつ火を通していく。
脂が炭へ落ちるたび、
ジュッ。
という音とともに香ばしい煙が立ち上る。
その隣では子持ちシシャモも焼き始めた。
やがてマグロのカマは、見事な焼き色をまとって焼き上がる。
私は思わず菓子缶コンロへ声を掛けた。
「よくやったな。」

旅へ出てから毎日のように働き続け、
シロギスを焼き、
肉を焼き、
自分から少しはみ出すほど大きなマグロのカマを相手に、
文句ひとつ言わず最後まで焼き上げてくれた。
「よく頑張ったな。」
そう声を掛けると、
「どんなもんだい。」
とでも言いたげに、炭火がパチッと音を立てた。
実は私は、この最後の「炭火がパチッと音を立てた」が好きです。
道具はしゃべらない。
でも、
炭火が返事をした。
すると、少し得意そうに、
「このくらい、お安い御用さ。」
そんな声が聞こえた気がした。
小さな身体で、本当によく頑張ってくれた。
暗くなり始めると、いつものようにLEDランタンを点ける。
そして、その隣でベテランエースにも火を入れる。
ボォーッという懐かしい燃焼音。
柔らかな灯りがサイト全体を優しく包み込む。
もう説明はいらない。
この灯りは、これまでの釣り部合宿でも、数え切れないほどの釣りキャンプでも、
いつも私の夜を照らしてくれた。
その灯りを眺めていると、
「夜は、やっぱり俺の出番だろ。」
そんな頼もしい声が聞こえた気がした。
「そうだったな。」
「今日もよろしく。」
その灯りの中で、ゆっくりとビールを飲む。
気が付くと、昨日と同じ猫が少し離れた場所からこちらを見ていた。
「また来たのか。」
思わず笑う。
今日は無理に追い払う気にもならなかった。
しばらくすると、猫は諦めたように暗闇へ消えていった。
静かな夜だった。
私はビールを飲みながら、サイトをゆっくり見回した。
クラウンエステート。
長老タープ。
ロッド。
リール。
ベテランエース。
菓子缶コンロ。
そして、旅の途中で何度も励ましてくれた、もう一人の自分。
今回の旅は、一人旅だと思っていた。
でも違った。気が付けば、たくさんの仲間に支えられていた。
私は缶ビールをそっと掲げる。
「みんな。」
「ありがとう。」
風がタープを優しく揺らした。
その音が、
「こちらこそ。」
そう返事をしてくれたような気がした。
エピローグはこちらから <2026年8月30日公開予定>



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