第三章 雨の海がくれた贈り物〜一尾のシロギスが結んだ、不思議なご縁〜
3日目の朝。
車の屋根を叩く雨音で目が覚めた。
昨夜から降り続く雨は勢いを増し、タープを叩く音が静かな森に響いている。
時計を見る。
まだ早い時間だった。
「今日は無理かな……。」
天気予報どおりなら、一日中雨。
昨日の時点で覚悟はしていたものの、実際に雨音を聞くと、やはり気持ちは沈む。
それでも、不思議なことに焦りはなかった。
昨日のうちに、今回のベースとなる拠点は整っている。

蛇に噛まれたというキャンパーの話を聞き、
予定していた生活拠点を急きょ高床式デッキへ変更したこと。
低いタープの下で何度も頭をこすりながらも、
「これなら安心してキャンプ生活が送れる。」と自分に言い聞かせたこと。
車に入り込んだ大量のコバエに悩まされ、
慌てて買い物ついでにコバエホイホイまで買ったこと。
そんな小さな苦労も、今となっては少し笑える。
「今日は釣れなくても仕方ない。」
そんな気持ちでキャンプ場をあとにした。
まず向かったのは、日出の石門。
車を降りて海を見る。
思わず苦笑いがこぼれた。

昨日までとはまるで別の海だった。
沖から押し寄せる白波が絶え間なく砕け、サーフ全体が白く泡立っている。
私は、この旅で一つ勉強したことがある。
南の海上に寒冷前線が延びたり、遠くの海上で台風が発生したりすると、
その影響は何百キロも離れた渥美半島まで届くということだ。

空は曇っているだけでも、海はまるで別人のような表情になる。
自然とは、本当に正直だ。
この海では、とても投げ釣りはできない。
そう判断し、湾内の「西の浜」へ向かうことにした。
西の浜は、太平洋側の外洋とは違い湾内に位置しているため、
太平洋側が荒れて釣りができない日でも、高波の影響を受けにくく竿を出せる場所だ。

今回の旅でも、太平洋側が強風や高波で釣りにならない場合に訪れようと
考えていたポイントの一つだった。
西の浜の風力発電所手前には、浜へ下りる階段があり、
その横には数台停められる広めの駐車スペースがある。
エステートを停め、タックルを準備して浜へ下りる。
釣り人はほとんどいない。
「ここで釣っても大丈夫なのかな……。」
初めて訪れた場所ということもあり、少しだけ不安になった。
「まあ、のんびりやるか。」
そう思いながら一投目を投げた。
着底。
ゆっくりとサビく。
しかし反応はない。
二投目。
三投目。
ようやくコツコツッと小さなアタリが伝わってきた。
ゆっくり巻き上げると、姿を現したのはシロギス釣りではおなじみの外道、
メゴチだった。
本命ではない。
それでも、投げ釣りをしていれば誰もが一度は顔を合わせる魚である。
「今日は君からか。」
思わず苦笑いがこぼれた。
このときの私は、まだ知らなかった。
この魚と、このあと何日も付き合うことになるとは──。
そんなことを考えながら釣りを続けていると、不意に遠くから大きな声が聞こえた。
「おーい!」
一瞬、ドキッとした。
「えっ……ここ、釣り禁止だった?」
頭の中にそんな考えがよぎる。
ところが近づいてきたのは、七十歳くらいの笑顔のおじさんだった。
「釣れてる?」
そう声を掛けられ、一気に肩の力が抜けた。
聞けば、豊川から来たという。
実によく話す人だった。
釣りのこと。
海のこと。
この浜のこと。
次から次へと話題が出てくる。
私は釣りを続けながら、会話を楽しんでいた。
その時だった。
三色半付近で、ブルブルッといかにもシロギスのアタリ。
今までとは違う、小気味よいアタリ。
「これは……。」
軽く合わせる。
竿先が生命感を伝えてきた。
慎重に巻いてくる。
その時、後ろから見守っていた豊川のおじさんが、小さな声でつぶやいた。
「どうか、キスでありますように。」
そして、
私も心の中で、
「頼む……。」
そう願いながらリールを巻き続けた。
その後、
波打ち際に銀色の魚影が見えた。
「シロギスだ。」
十八センチほどの、なかなか良いサイズだった。
この旅でようやく出会えた一匹。
たった一匹なのに、心の中では何十匹分もの価値があった。
すると、おじさんが笑いながら言った。
「それ、お母さんに見せてやって。」
言われるまま、駐車場の方を向いて魚を掲げる。
車の中にいる奥さんに見えるように。
すると、おじさんは満足そうに笑って言った。
「よし、俺もやるか。」
そう言って自分の車へ戻り、釣り道具を持ってきた。
そして私の右隣で竿を出し始めた。
たった一匹のシロギスが、人を動かした。
そんな光景が、なんだか嬉しかった。
しばらくすると、今度は奥さんが歩いてこちらへやって来た。
とても穏やかな笑顔の方だった。
「横浜から来たの?」
そこから会話が始まった。
「横浜のどちらですか?」
「青葉区です。」
そう答えると、奥さんが少し驚いたような表情になった。
「えっ、娘が先日まで、青葉区の〇〇南に住んでいたんですよ。」
思わず二人で顔を見合わせる。
まさか愛知県の海岸で、そんな地名が飛び出すとは思ってもいなかった。
奥さんはその場で娘さんへ電話をかけた。
「住所、どこだった?」
電話を切ると、笑顔でこちらを向いて言った。
「やっぱり、〇〇〇南だったわ。」
偶然とは思えない縁に、その場のみんなで思わず笑ってしまった。
旅先では、時々こんな不思議な偶然がある。
でも、その偶然が人と人との距離を一気に縮めてくれる。
しばらく話をしていると、奥様が少し照れくさそうに話してくれた。
「実は主人、昨年大きな病気をしたんです。」
その一言で、空気が少しだけ変わった。
詳しく聞くと、昨年大きな病気を経験し、
娘さんから「もう一人で釣りに行かせないで」と言われたそうだ。
それ以来、こうして二人で釣りに来るようになったという。
その話を聞いて、ご主人の姿を見た。
先ほどまで楽しそうに話していた笑顔の奥に、
いろいろな時間を乗り越えてきた人だけが持つ穏やかさがあった。
そして、その隣には、何も特別なことは言わず、ごく自然に寄り添う奥様がいる。
釣りという趣味が、
お二人にとって「魚を釣ること」以上の意味を持っているように感じた。
「元気になって、本当に良かったですね。」
そう言うと、お二人とも笑顔でうなずいた。
その笑顔が、とても印象に残っている。
しばらくすると、奥様はご主人のところへ戻っていった。
私は再び竿を振る。
しかし、この日はもう釣果どころではなかった。
こういう出会いがあるから、一人旅はやめられないのだと思った。
しばらくして、また奥様がこちらへ歩いてきた。
手には何か小さな袋を持っている。
「スルメ、お好きですか?」
突然の問いかけだった。
「好きですよ。」
そう答えると、
奥さんがバッグをごそごそと探り、小袋いっぱいのスルメを取り出した。
「良かったら食べる?」
そう言いながら差し出してくださった。
私がお礼を言うと、奥さんは笑いながら、
「私ね、口の筋肉を鍛えるためと、ボケ防止のために、いつも持ち歩いてるの。」
と話してくれた。
思わず笑ってしまう。
その言葉も印象的だったが、それ以上に驚いたのは、その量だった。
「えっ、こんなにいただいていいんですか?」
と思うほど、たくさん分けてくださったのだ。
入れ物がなかった私は、ちょうどゴミ箱代わりに使おうと買ってあった
新品の小さな収納ボックスを取り出し、そこへありがたく入れさせてもらった。
新品の収納ボックスが、まさか最初の役目を「スルメ入れ」として迎えるとは
思ってもいなかった。
「ありがとうございます。」
そう頭を下げると、奥様はいつもの優しい笑顔で手を振ってくれた。
正直、その時は少し不思議だった。
「なんでスルメなんだろう。」
そんなことを思った。
でも、旅から帰ってこの出来事を書いている今なら、少し違う気持ちになる。
あれは、スルメをくれたのではない。
旅先で出会った一人の釣り人に、「頑張ってね。」という気持ちを分けてくださったのだ。
だから、あの日のスルメは、今まで食べたどんなスルメよりも美味しかった。
その夜、ビールのお供に一枚ずつかじりながら、お二人の笑顔を思い出していた。
帰り際、ご主人が声を掛けてくれた。
「また来たらいいよ。秋になると日出の石門や堀切のあたりは大物も出るからね。
またその時、会えたらいいね。」
「はい。また来ます。」
その約束が果たせるかどうかは分からない。
でも、その時は心からそう思った。
たった二時間ほどの出会いだった。
それなのに、何年も前から知り合いだったような、不思議な温かさがあった。
私は、お二人に深く一礼し、西の浜をあとにした。
予定にはなかった朝の釣りだったため、
釣り用クーラーボックスには氷を入れていなかった。
思いがけずシロギスが釣れたのは嬉しい誤算だったが、
このままでは鮮度が心配だ。
一度キャンプ場へ戻り、氷の入った食材用クーラーボックスへ移し替えることにした。
今日の釣果は決して多くない。
それでも、一匹一匹が大切だった。
夕方の献立を考えながら車を走らせる。
その途中、翌日の海はどうだろう。
その思いが消えず、もう一度伊良湖岬の駐車場へ車を走らせた。
駐車場から海を眺める。

しかし、朝と比べても波は大きく変わっていない。
「明日は本当にできるのかな……。」
そんな思いを胸に海を後にする。
伊良湖岬の駐車場に隣接する一角には、大あさりを名物にした食事処が軒を連ねている。
その店先を歩いていると、一軒のお店の方が笑顔で声を掛けてくださった。
「食事やってますよ。どうぞお入りください。」


一瞬、足を止めた。
しかし、すぐには店へ入らなかった。
というのも、私は昔から旅先での店選びには少し慎重になる癖があった。
特に観光地では、声を掛けられた勢いだけで入るのではなく、
自分で納得してから決めたいと思っている。
もちろん、声を掛けてくださるお店が悪いという意味ではない。
せっかく遠くまで来た旅先だからこそ、後悔のない食事をしたい。
一度エステートへ戻り、スマートフォンで店の情報を確認する。
すると、すると、食べログでもかなり高い評価が付いていた。
「これは期待できそうだな。」
少し疑ってしまった自分に苦笑いしながら、改めて店へ向かった。
ちょうど昼前だったこともあり、せっかくだから伊良湖名物を味わってみることにした。
普段の私は、旅先だからといって名物料理を必ず食べ歩くタイプではない。
「せっかく来たんだから。」
そんな理由だけで店を選ぶことは、あまりない。
まして今回は、初めての一人旅だった。
誰かと相談することもなく、自分の判断だけで行動する旅。
だからこそ、いつも以上に慎重になっていたのかもしれない。
しかし、その日は少し違った。
店の前で声を掛けていただいたこと。
そして、一度エステートへ戻り、自分で調べて納得できたこと。
その二つが重なり、
「今回は特別だな。」
そう思い、店の暖簾をくぐった。
注文したのは、名物の「大あさりかりかり丼」。
価格は1,700円。
運ばれてきた料理を見て、少し期待が膨らんだ。
しかし──。
一口食べた瞬間、その期待は静かにしぼんでいった。
申し訳ないが、私の口にはまったく合わなかった。
決してお店を否定したいわけではない。
好みは人それぞれだ。
ただ、私には合わなかった。
「こんなことなら、いつものラーメンで良かったかな。」
思わず苦笑いがこぼれる。
その瞬間、昔からの教訓が頭をよぎった。
「やっぱり、昔からの自分の感覚は間違っていなかったのかな。」
もちろん、すべてのお店がそうとは思わない。
でも、この旅で私だけが得た、小さな教訓だった。
旅とは、成功だけでなく、失敗もまた思い出になる。
だから今では、この出来事も笑って話せる。
夕方、キャンプ場へ戻る。
この日も夕食はBBQ。
豊川のおじさんと共に釣り上げた一尾のシロギスは、塩焼きにする。
数ではない。
この一尾には、旅先で出会った人との時間が詰まっている。
自分で釣った魚を、その日のうちに炭火で味わう。
それだけで十分に幸せだった。
18時頃。
雨が本降りになり始めると、風も次第に強さを増してきた。
防風林に囲まれたこのキャンプ場は、普段なら風を和らげてくれる場所だ。
それでも、この日の風は容赦がなかった。
木々が大きく揺れ、風が吹き抜けるたびに張ったばかりのタープが大きくあおられる。
「大丈夫かな……。」
そう思った矢先だった。
バタンッ。
一本のポールが倒れた。
防風林に守られているはずのキャンプ場でも、
自然の力を完全に防ぐことはできなかった。
「うわっ!」
慌てて外へ飛び出し、雨に濡れながら立て直す。
幸い、大事には至らなかった。
自然の中では、人間の都合など関係ない。
だからこそ、自然は面白い。
そして、怖い。
雨音を聞きながら、この日も車へ戻った。
寝る前、昼間にもらったスルメを取り出す。
ビールを一口。
スルメを一口。
静かな車内で、一人笑ってしまった。
今日、一番嬉しかったのは、シロギスではない。
豊川のおじさんと奥さんとの出会いだった。
そんなことを思いながら、ゆっくりと目を閉じた。
旅のあとがき
旅をしていると、不思議な出会いがある。
ほんの数時間しか一緒にいなかったのに、
何年も前から知っているような気持ちになる人がいる。
魚を一匹釣っただけで始まった会話。
横浜ナンバーがつないでくれた縁。
一袋のスルメに込められた優しさ。
振り返ると、この日の思い出は、魚の数ではなく、人の温かさばかりだった。
旅先で出会う人たちは、きっとその土地の風景の一部なのだと思う。
だから私は、また旅に出たくなる。
旅のことば
「人との出会いは、旅がくれる最高の釣果である。」
旅の教訓 その三
旅先では、「何を食べたか」より、「誰と笑ったか」の方が、ずっと長く心に残る。
第四章「本命は三匹。でも、心は大漁だった。」はこちらから <2026年8月22日公開予定>



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