東海シロギス珍道中(6)― 魚を追いかけた七日間、人との出会いが一番の釣果だった ―

キャンプ

第六章 釣れなくても、旅は続く
~旅の楽しみは、魚だけじゃなかった~

朝、コテージのベッドで目を覚ました。 久しぶりに身体が軽い。

キャンプ場での車中泊も快適だったとはいえ、
やはりベッドで眠る心地よさは別格だった。
エアコンの効いた部屋でぐっすり眠り、
疲れもすっかり取れている。

「今日は釣れる。」 そんな根拠のない自信が、自然と湧いてきた。

昨日まで苦戦が続いた伊良湖。
釣果は思うようにはいかなかった。
それでも、気持ちはまだ折れていなかった。
今日は新しい海、浜名湖へ向かう。
きっと流れが変わる。 そう信じて車を走らせた。

今回、浜名湖へ向かった目的は二つあった。
もちろん、一番の目的はシロギス釣りである。
伊良湖で果たせなかった「思う存分シロギスを釣る」という目標を、
ここで取り返したかった。

そしてもう一つ。 翌々週に予定している釣り部合宿の釣り場を下見することだった。

合宿メンバーは八人。 その半数近くは私と同世代か少し年下で、
砂浜を長い距離歩きながら釣りをするのは少し大変だ。
だから私は、車を横付けでき、無理なく竿を出せる場所を探していた。

出発前には、みんなに胸を張ってこう言っていた。

「下見してくるよ。」

その時の私は、伊良湖で大漁のシロギスを釣り、
一夜干しにして合宿へ持って行くつもりでいた。
そのための干し網まで車に積み込んで。
 
もちろん、この時は、
その干し網が最後まで出番を迎えないことなど想像もしていなかった。

午前八時ごろ。 目的の釣り場へ到着した。

車を降りて、海を見た瞬間だった。 「……あれ?」 思わず足が止まる。

何となくだ。 理由は説明できない。 でも、釣れそうな雰囲気がしない。

さらに周囲を見渡す。 「ここじゃ、八人が並んで竿を出すのは難しいな……。」

合宿の釣り場候補地として調べていた場所でもあり、その思いはすぐに打ち砕かれた。
期待が大きかった分だけ、落胆も大きい。

しばらく車の中で海を眺めていた。
窓の向こうでは、静かな浜名湖が朝日を浴びている。

「帰ろうかな。」 そんな弱気な考えが、一瞬頭をよぎった。

いや。 せっかくここまで来たんだ。
有名な釣りYouTuberも、この場所でシロギスを釣っていた。
自分もやってみなければ分からない。

そう自分に言い聞かせ、車を降りた。

釣り場には数人の釣り人がいた。 その中で、投げ釣りをしている方に声を掛ける。

「シロギス、どうですか?」 返ってきた答えは、期待とは反対だった。

「朝から一匹だけだね。」
「今は休憩中。」

その一言で、胸の中にあった期待が少しだけしぼんだ。 「また厳しいのか……。」

それでも、今日は自分で確かめるしかない。
私は静かにタックルを組み立て、浜名湖へ向かって第一投を放った。

第一投。 ゆっくりとサビいてくる。 反応はない。

もう一度、思い切り遠投する。 沖を丁寧に探る。 それでもアタリはない。

今度は近投。 手前をゆっくり探る。 また遠投。 そして近投。

魚がどこかにいるはずだと信じて、距離を変えながら探り続ける。
しかし、シロギスからの返事はなかった。

時間だけが静かに過ぎていく。 周りの釣り人も黙々と竿を振っている。

聞こえるのは、 オモリが水面へ着水する音。
リールを巻く音。 そして、ときおり風が水面を渡る音だけだった。

それでも私は投げ続けた。 「ここなら。」 「次こそ。」 そんな期待を、
一投ごとに込めながら。

時計を見ると、もう午前十一時前になっていた。 餌も残り少なくなっている。

「これで最後かな。」 そう思いながら仕掛けを回収していると、
竿先にわずかな重みが乗った。

シロギス特有の小気味よいアタリではない。
それでも、今日初めて感じた生命感だった。

ゆっくりと巻き上げる。 上がってきたのは、小さなメゴチ。
思わず苦笑いがこぼれる。

「また君か。」

針を外そうとして、ふと手が止まった。 魚はいる。 だったら。

もう一投だけ。 新しい餌を付け、仕掛けを遠くへ送り込む。 丁寧に探る。

…… 反応なし。

「これで本当に最後。」 そう言い聞かせながら、今度は近投。 手前をゆっくり探る。

…… やっぱり何も起きない。

「あと一回だけ。」 釣り人なら、一度は口にしたことがある魔法の言葉である。

遠投。 ゆっくりサビく。 海底の変化を感じながら、最後まで丁寧に探る。

それでも、竿先が震えることはなかった。

私は静かに仕掛けを片付けた。 釣果は、 シロギスゼロ。 メゴチ一匹。

浜名湖まで来て、この結果だった。 悔しくないと言えば嘘になる。
正直、かなり落ち込んでいた。

伊良湖では海のせいにできた。 天候のせいにもできた。 ポイントのせいにもできた。

でも今日は違う。 浜名湖に期待して来た。
事前に調べ、有名な釣り人も釣果を上げていた場所だった。
それでも釣れなかった。

そんな思いが頭の中をぐるぐる回る。

「もしかして……。」 「俺、本当に投げ釣りが下手なんじゃないか。」

そんな言葉まで浮かんできた。
でも、その考えを振り払うように、私は竿をケースへしまった。

「もう、いいっか。」 その一言には、諦めだけではなく区切りの意味もあった。

今日は負けた。 それは認めよう。 でも、この旅はまだ終わっていない。

次のキャンプ場までは車で一時間ほど。
途中で昼食を食べて、夕食の買い出しをしよう。
炭も少なくなってきたから補充しないと。

そんなことを考え始めると、不思議と少しだけ気持ちが軽くなった。

そして、その時だった。 もう一人の自分が、小さくつぶやいた。

「魚が釣れなくても、今日は大好きなBBQができるじゃないか。」

私は思わず笑ってしまった。 確かにそうだ。

出発前は、 「肉はいつ食べようかな。」 そんな贅沢な悩みを考えていた。

それが今では、 「今日もBBQだ。」 になっている。

それでも、不思議と嫌な気はしなかった。

私は車に乗り込み、次のキャンプ場へ向けて静かにアクセルを踏んだ。

浜名湖をあとにし、次のキャンプ場へ向かう。
車を走らせながら、今日の釣りを振り返る。

思うような釣果ではなかった。
それでも、新しい海で竿を出せたことが嬉しかった。

 途中で昼食を済ませ、夕食の買い出しをする。

今夜もBBQだ。 魚が釣れればシロギス料理。
そんな献立を何度も思い描いていたが、現実はなかなか思いどおりにはならない。

精肉売り場の前で足を止める。 今日は、少し高価な肉で贅沢をしよう。
そう思って、いつもなら少しためらう値段の牛肉を買い物かごへ入れた。

すると、もう一人の自分が笑いながら話しかけてきた。
「大好きなBBQなんだから、それくらい贅沢してもいいじゃないか。」

思わず私も笑ってしまう。
確かにそうだ。

考えようによっては、悪くない。

炭も少なくなってきたので買い足し、買い物を終えるとキャンプ場へ向かった。

受付を済ませると、管理人さんが笑顔で言った。
「今日は誰もいないから、好きな場所を使っていいよ。」

思わず、 「えっ、本当にですか?」 と聞き返してしまった。

キャンプ場を一周してみる。 いや、二周。 結局、三周もしてしまった。

「好きな場所をどうぞ。」 そう言われると、かえって迷ってしまう。

結局、トイレや受付にも近い場所を選ぶことにした。

ここは伊良湖のキャンプ場とはまったく雰囲気が違っていた。
芝生はきれいに整備され、サイトごとに水場もある。
蛇が潜んでいそうな草むらや木々もほとんどない。
安心して歩ける。

実はこのキャンプ場こそ、釣り部合宿で毎年利用している場所だった。
いつもはコテージ泊なので、キャンプサイトを使うのは今回が初めてだった。

サイトを決め、荷物を降ろす。
まず取り掛かったのは、ウィングタープを張ることだった。

二十年以上前、キャンプを始めた頃に初めて買ったタープ。
 長い年月を過ごしてきた、私にとっては古い相棒である。

芝生の上に広げ、ポールを立て、ロープを張る。
風を受けながら、少しずつ形になっていく。

そして完成した瞬間、思わず手を止めた。

青空の下に広がる翼。
その横には、今回の旅のきっかけになったクラウンエステート。
その組み合わせが、想像以上に似合っていた。

「……いいじゃないか。」 思わず笑みがこぼれる。

その時、どこからか声が聞こえた気がした。
「どうだい。まだまだ現役だろう。」 まるで長老タープが、
少し誇らしげに胸を張っているようだった。

「そうだな。」 私は心の中で答えた。

「まだまだ頼むぞ。」

そう心の中でつぶやきながら、タープのロープをもう一度しっかり張った。

日が暮れ始める。 辺りが暗くなってきたので、まずはいつものLEDランタンを点けた。 手軽で便利。 今回の旅でも何度もお世話になっている相棒だ。

その灯りの下で、ゆっくりBBQを楽しむ。

すると、どこからか気配を感じた。
見ると、一匹の猫がこちらをじっと見ている。
どうやら、私の夕食がお目当てらしい。

「ごめんね。これはあげられないんだ。」 声を掛けても、少し離れるだけ。
しばらくすると、また近づいてくる。
追い払っても、しばらくすると戻ってくる。 なかなか諦めない。

その姿を見て、思わず笑ってしまった。 「参ったな。」

その時だった。 荷物の奥から、何かが存在を主張しているような気がした。

「おい。」
「今回、まだ俺の出番がないじゃないか。」
「ここまで一緒に来たのに、いつ使うんだ?」

そんな声が聞こえた気がした。 思わず笑う。

「そうだな。」

取り出したのは、コールマンのホワイトガソリンランタン。
長年、釣り部合宿や釣りキャンプで活躍してきた、私にとってもう一人の相棒である。

燃料を入れる。 ポンピングする。 そして火を灯す。

ボォーッという懐かしい音とともに、柔らかな光が広がった。
「やっと出番か。」 そう言っているようだった。

その瞬間、サイトの雰囲気が一変する。 LEDにはない温かみのある灯り。

「待ってました。」 そんな声が聞こえてきそうなくらい、
このランタンは堂々とそこに立っていた。

猫も少し距離を取り、静かにこちらを眺めている。

私は椅子にもたれ、ビールをひと口飲んだ。

釣果は散々だった。 浜名湖でも思いどおりにはならなかった。
それでも、不思議と心は穏やかだった。

目の前には炭火。 頭の上には、二十年以上付き合ってきたベテラン長老タープ。
足元では、レギュラー出演の菓子缶BBQコンロが今日もいい仕事をしている。
そして、久しぶりに主役を務めたベテランエースのガソリンランタンが、
静かに夜を照らしていた。

そんな景色を眺めていると、もう一人の自分がそっとつぶやいた。

「今日は、これで十分じゃないか。」

私は静かにうなずいた。

明日は、もう一度浜名湖へ行こう。
残った餌もある。
今度こそ釣れるかもしれない。
でも、釣れなくても大丈夫だ。
もう、この旅を楽しむ方法を知っている。次に
そう信じながら、静かな夜はゆっくりと更けていった。

第七章「ありがとうを伝える日」はこちらから <2026年8月28日公開予定>

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