第四章 「本命は三匹。でも、心は大漁だった。」~雨上がりの空の下で、ひとり旅が少し好きになった日~
夜の雨は朝には上がっていた。 空はまだ厚い雲に覆われていたが、
その隙間から時折青空ものぞく。
「今日はいける。」
そう期待しながら車を走らせ、最初に向かったのは日出の石門だった。
しかし、海を見た瞬間、その期待は打ち砕かれる。
昨日よりもさらに波が高い。
白波が次々と押し寄せ、仕掛けを投げてもすぐに波にもまれてしまいそうだ。

「これじゃ釣りにならないな。」 そう判断し、昨日と同じ西の浜へ向かうことにした。
駐車場に着くと、朝、日出の石門で1人だけ釣りをしていた男性がちょうどやって来た。
お互い軽く会釈を交わす。
「朝、日出の石門で釣られていましたよね。」
そう声を掛けると、男性も「ああ、いましたね。」と笑顔で応えてくれた。
「向こうはどうでした?」 私が尋ねると、
「波が高くて、仕掛けがぐちゃぐちゃになって釣りになりませんでした。」
やはり同じ判断だったようだ。
今度はその男性から聞かれた。 「ここは釣れますか?」
少しだけ胸を張って答えた。 「昨日、18センチくらいのシロギスが釣れましたよ。」
たった1匹。 それでも昨日の私にとっては十分自慢できる1匹だった。
その男性は「そうですか。」と笑顔で準備を始め、少し離れた場所で竿を振り始めた。
私も支度を整え、海へ向かう。 今日こそ、もっと釣りたい。
そんな思いを込めて第1投を放った。
しばらくは静かな時間が流れた。
海を見る。
太平洋側の外洋で見た荒れた海とは、まるで別の表情だった。
波はほとんどなく、穏やかな海面が広がっている。

「さすが内湾だな。」
前線や台風の影響を受けにくい西の浜は、
外洋が荒れている日でも竿を出せる可能性がある。
改めて、この場所を候補に入れておいて良かったと思った。
ゆっくりとサビいていると、 ブルブルッ、ブルブルブルッ。
竿先を叩くような振動が続く。
シロギス特有の、小気味よいアタリだ。 この感触がたまらない。
慎重に巻き上げる。 姿を見せたのは、今日最初のシロギスだった。
「よし!」 思わず声が漏れる。 昨日に続き、今日もシロギスに会えた。
それだけで十分うれしかった。
次の1投。 コツ、コツッ。
先ほどのアタリとは少し違う。 ブルブルッと竿先を震わせるような勢いはない。
それでも、この時期ならシロギスの可能性は十分ある。
「今度もシロギスだ。」 そう信じながら、ゆっくりとリールを巻き始めた。
しかし、姿を現したのは―― シロギス釣りではおなじみの外道、メゴチだった。
「また君か。」 思わず苦笑いする。
最初はリリースしていた。 本命ではない。 そう思っていたからだ。
しかし、その後も釣れる、釣れる。 まさにメゴチ祭りである。
しかも5本針すべてにメゴチが掛かる、いわゆる“パーフェクト”まで2度も経験した。
ここまで来ると笑うしかない。

ふと考えた。 「待てよ。」
メゴチは決してまずい魚ではない。 刺身も美味しい。
天ぷらにすれば、むしろ高級魚として扱われることもある。
そう思った瞬間、それまで「外道」と思っていた魚が、急にごちそうに見えてきた。
「今日は君たちにも働いてもらおう。」 そう決めて、
今度はクーラーボックスへ迎え入れた。
本命ではなくても、美味しく食べられる。 それもまた釣りの楽しみなのだ。
午前11時ごろ。 朝話をした男性が、こちらへ歩いてきた。
私はてっきり、
「メゴチ祭りですね。」
という慰めの言葉でも掛けに来てくれたのかと思っていた。
ところが返ってきたのは、
「ツ抜けしました。晩酌のおかずが確保できたので帰ります。」
という予想外の言葉だった。
思わず、「えっ」と聞き返しそうになった。
ツ抜け。
つまり、10匹以上釣ったということだ。
男性は満足そうな笑顔で帰っていった。
私はクーラーボックスをのぞく。 シロギス3匹。 メゴチ5匹。ヒイラギ一匹
「くそっ、なんで俺だけメゴチ祭りなんだ……。」 と、心の中でつぶやいた。
昨日18センチのシロギスを釣って少しだけ先輩気分で話していた自分が、
急に恥ずかしくなった。
海は昨日と同じように見えても、魚との出会いは思いどおりにはならない。
釣りとは、本当に思いどおりにならない。
それでも、不思議と落ち込んではいなかった。
今日は、シロギスが3匹。 そして、メゴチが5匹。ヒイラギ一匹
これだけあれば、今夜の目標だった天ぷらができる。
そう思うと、自然と気持ちは夕食へ向かっていた。
釣果はシロギス3匹。 そしてメゴチ6匹。

釣ったシロギスとメゴチは、決して大きなサイズではなく、数も多くはなかった。
それでも、自分で釣った魚を天ぷらにして味わいたい。
そう思い、少し足りない分はスーパーでエビを買い足すことにした。
帰り道、スーパーへ立ち寄ると鮮魚コーナーでエビを手に取った。
「今日はエビにも手伝ってもらおう。」
少し負け惜しみにも聞こえるが、こういう柔軟さも一人旅のいいところだ。
献立は自由。 誰に気を遣うこともない。 自分が満足できれば、それで十分なのである。
キャンプ場へ戻るころには、辺りは夕暮れ色に染まり始めていた。
車を降りると、昨日聞いた話が頭をよぎる。
「昨日、このキャンプ場で蛇に噛まれた人がいたらしい。」
その話を聞いて以来、どうしても長く足を地面に着けているのが落ち着かなかった。
もちろん、本当に蛇が現れるとは限らない。
それでも、一度頭に入った情報は簡単には消えてくれない。
そこで私は、夕食の準備を始める前に近くのホテルへ向かった。
目的はトイレである。
「蛇に怯えながら用を足すくらいなら、最初からホテルで済ませてしまおう。」
少し情けない気もしたが、それで安心できるなら、その方がいい。
これもまた、一人旅ならではの知恵だった。
キャンプ場へ戻ると、いよいよ夕食の準備を始める。
シロギスを3枚におろし、メゴチも丁寧に下処理をする。
そこへスーパーで買ったエビも加えた。
カセットコンロに鍋を載せ、油を温める。
ジュッ――。 衣をまとった魚を油へ入れると、
心地よい音が静かなキャンプ場に響いた。
こんがりと色づいた天ぷらを皿に盛り付ける。

まずはシロギスを1口。 サクッ。 ふわっ。
「うまい。」 思わず声が漏れた。
続いてメゴチを口に運ぶ。 こちらも驚くほど美味しい。
身はふっくらとして甘みがあり、シロギスとはまた違った魅力がある。
昼間まで「外道」と呼んでいた魚とは思えなかった。 今日は持ち帰って正解だった。
冷えたビールを1口飲む。 揚げたての天ぷらをつまみに、また1口。
この旅で初めて、出発前から思い描いていた夕食が実現した。
釣果は決して大漁ではない。 それでも、自分で釣った魚を、
自分で料理し、自分で味わう。
その時間は、何ものにも代えがたい贅沢だった。
気分も良くなり、お酒も自然と進む。
ふと周りを見渡す。
いつもなら、どこからともなく聞こえてくるキャンパーたちの楽しそうな笑い声や、
語り合う声。 そんなキャンプ場のBGMが、今夜はどこにもなかった。
キャンプ場には私1人。 森を吹き抜ける風が木々を揺らす音だけが、
静かに耳へ届く。
少し寂しい。

実は、この旅に出る前、一番心配だったのは釣果ではなかった。
初めての一人旅で、寂しさに耐えられるだろうか。
それが本当の不安だった。
でも、この夜は違った。
目の前には、自分で揚げた天ぷら。 手には冷えたビール。
今日1日の出来事を思い返しながら過ごす時間は、不思議と心地よかった。
「一人旅も、悪くないな。」 自然とそんな言葉がこぼれた。
食事を終え、車へ戻る。 横になると、体がふわっと包み込まれた。
この車中泊マットは、本当に買ってよかった。
実は最初、自分のへそくりで7000円くらいのマットを買うつもりだった。
ところが昨年、エアコンを購入したときに貯まったポイントを見た妻が、
「あなたの好きなものを買っていいよ。」 と言ってくれた。
家電量販店にキャンプ用品はないだろうと思っていたら、まさかのアウトドアコーナー。
そこで出会ったのが、この2万円ほどする車中泊マットだった
。
予算は大きく超えてしまったが、この寝心地なら納得である。
目を閉じる。 明日こそ海は穏やかになっているだろう。
そんな期待を胸に、私は静かに眠りについた。
旅のあとがき
この日、釣れたシロギスは3匹。
数字だけを見れば、決して満足できる釣果ではなかった。
それでも、この日は旅に出る前から思い描いていた
「釣った魚で天ぷらを作る」 という目標を、ようやく叶えることができた。
そしてもう1つ、大きな収穫があった。
それは、 「一人旅も悪くない」 と思えたことだ。
釣果では測れない満足感が、この夜には確かにあった。
旅のことば
「旅は景色を変えるものではない。昨日までとは違う自分に気づかせてくれるものだ。」

旅の教訓 その四
旅の楽しさは、人の多さでは決まらない。
自分で作った一皿が、寂しさを忘れさせてくれる夜もある。
第五章「釣れない海で、自分に出会った」はこちらから <2026年8月24日公開予定>



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