第五章 釣れない海で、自分に出会った~もう一人の自分が、そっと話しかけてきた日~
朝、目が覚める。 今日で、このキャンプ場ともお別れだ。
お世話になったキャンプ場は、利用できるのが最大三泊まで。
今夜からは、同じ伊良湖にあるコテージへ移る予定だった。
七日間の遠征ともなると、さすがに車中泊だけでは疲れがたまるだろう。
そう考えて、旅の途中に一日だけベッドでゆっくり眠れるコテージを予約していた。
しかし、その前にやることがある。
朝マヅメ釣行だ。
ここまでの釣果を考えれば、この時間だけは絶対に外せない。
とはいえ、タープやテーブル、調理道具に調味料など、
三日間でずいぶん生活感の出てきたキャンプサイトを片付けなければならない。
先に片付けを済ませるか、それとも釣りへ行くか。 少し迷った。
いや、正確には迷ったふりをしただけだった。 答えは最初から決まっている。
「朝マヅメ優先。」
片付けは帰ってきてからやればいい。 そう自分に言い聞かせ、車を走らせた。
期待を胸に、まず向かったのは日出の石門。
しかし、海を見た瞬間、その期待はあっさり打ち砕かれた。
昨日よりも、さらに荒れている。
波は高く、浜へ降りることさえためらうような状況だった。

「これは無理だな……。」 苦笑いしながら車へ戻る。
結局、この日も西の浜へ向かうことにした。
ところが、西の浜へ着くと今度は別の光景が待っていた。 車が多い。 やけに多い。
考えることは皆同じだったようだ。
太平洋側の外洋で釣りにならなかった釣り人たちが、
一斉に西の浜へ集まってきていたのである。
前日に車を停めた場所は、すでに満車だった。
少し先まで進み、ようやく前日より少し奥に空いている駐車スペースを見つけ、
エステートを停めた。

天気が良かったので、エステートのバックドアを開け、
その縁に腰掛けて朝食をとることにした。
朝食と言っても、
前日にスーパーで買っておいた菓子パンとペットボトルのコーヒーだけだ。
それでも、海を眺めながら食べる朝食は、家では味わえない贅沢だった。
すると、一台の車が隣へ入ってきた。
どうやらその人も、太平洋側の外洋から移動してきたらしい。
「向こうは厳しかったですね。」 そんな会話を交わしながら、お互い準備を始める。
この数日で、見知らぬ釣り人と自然に言葉を交わせるようになっていた。
これも、一人旅だからこその楽しさなのかもしれない。
午前8時。 第一投。
「今日こそ。」 そんな願いを込めて思い切り振り抜いた。
着底。 そして仕掛けを動かした、その瞬間だった。
ガツッ。 「えっ?」
いきなり根掛かり。 幸先の悪いスタートだった。
仕掛けをロストした。
しかも力糸から切れてしまったため、予備の力糸へ交換しようとした。
ところが、必要になると思って準備していた予備の力糸を、
エステートに置き忘れてきてしまっていた。
慌てて車まで取りに戻り、力糸から結び直す。 朝一番の貴重な時間が過ぎていく。
「まあ、こんなこともある。」 そう気持ちを切り替え、再び竿を振る。
目いっぱい投げても5色半。 どうしても仕掛けが右へスライスしてしまう。
フォームを変えてみる。 最近練習している、
剣道の面を打つようなイメージで真っすぐ振り抜く。
確かに真っすぐ飛ぶ。 しかし飛距離は四色半ほど。
飛距離を取るか。 コントロールを取るか。 答えはまだ見つからない。
「遠投って、本当に難しい。」
そんなことを考えながら、前日アタリのあった3色半付近を丁寧に探っていく。
リールサビキ。 ロッドサビキ。
誘い方を変えながら、少しでも魚の反応を探す。
しかし、時間だけが過ぎていく。
アタリはない。
しばらくすると、隣で釣っていた男性が近づいてきた。
「ここ、根掛かりするので場所を移動します。」 そう言って挨拶に来てくれた。
私は何気なく尋ねた。 「釣れましたか?」
返ってきた言葉に、一瞬耳を疑った。
「サイズは小さいですけど、もう10匹くらいです。」
「えっ?」
思わず聞き返しそうになった。 10匹。
私はまだ1匹も釣れていない。
男性は笑顔で、
「今日は3色付近でアタリますね。」
と教えてくれた。
「ありがとうございます。」
お礼を伝えると、男性は軽くうなずき、新しい場所へ移動していった。
私は、その後ろ姿をしばらく見送っていた。 そして、小さくつぶやく。
「またか……。」
昨日もそうだった。 今日もそうだった。
周りは釣れている。 なのに、なぜか私だけ釣れない。
「もしかして……。」
今まで心の奥へ押し込めていた言葉が、ゆっくりと顔を出す。
「俺、下手なんじゃないか。」
その一言が、この日の海よりも重たく胸にのしかかった。
エサだけが少しずつ減っていく。
結局、午前11時。 納竿する頃には、クーラーボックスの中にいたのは、
小さなピンギスが一尾とメゴチが三尾だけだった。
帰り道、私は何度も考えていた。 「なんで俺だけ釣れないんだ。」
その問いに答えてくれる人は、まだどこにもいなかった。
キャンプ場へ戻る。 時計を見ると、まだ昼前だった。
コテージのチェックインは午後3時。 時間はたっぷりある。
「さて、片付けるか。」
そう呟いて、3日間お世話になったキャンプサイトを見渡した。
テーブルを畳み、椅子を片付ける。 小物を収納し、
荷物を一つずつ車へ積み込んでいく。
最後に残ったのは、20年以上付き合ってきた相棒――ベテラン長老タープだった。
このタープは、私がキャンプを始めた頃に初めて買ったウィングタープだ。
家族とのキャンプでも何度も活躍し、その後は長い間、物置で眠っていた。
今回の旅で、久しぶりに現役復帰したのである。
広げた時には汚れも目立ち、縫い目のシームテープも剥がれ始めていた。
「今回が最後かな。」 そう思いながら連れてきた相棒だった。
だから次に泊まるキャンプ場では、タープはレンタルしようと考えていた。
ところが――。
ロープを外し、タープを畳もうと裏返した瞬間だった。
「あれ?」 思わず手が止まる。
きれいだ。 驚くほどきれいだった。
よく考えてみると、 初日は今にも雨が降り出しそうな空模様だった。
とにかく雨が降る前に張ってしまおう。
そんなことばかり考えていたせいで、
表と裏を逆に張ってしまっていたのである。
泥だらけだと思っていたのは裏側だった。
本来の表面は、二十年以上経ったとは思えないほどきれいなままだった。
思わず笑ってしまった。
「なんだ、お前、まだまだ現役じゃないか。」
そう声を掛けながら、今度は少し丁寧に畳む。
「また、次も頼むぞ。」
そんな思いを込めて、エステートへ積み込んだ。
撤収を終えたのは正午頃。 チェックインまでは、まだ時間がある。
せっかくの時間を無駄にはしたくなかった。
スーパーで夕食の買い物を済ませる。 夕マヅメ用のエサも追加で購入した。
その後、夕マヅメの候補に考えていた内湾のポイントも見て回った。
事前に調べて期待していた場所だったが、実際に見てみると、どうも気持ちが乗らない。
「ここじゃない。今日も西の浜だな。」
そう決めると、そのままコテージへ向かった。
「明日はきっと状況が変わる。」 そんな期待だけは、まだ消えていなかった。
宿へ向かう途中、ふと思い出した。
「そういえば、3日間風呂に入ってない。」
キャンプ場から歩いて行けるホテルには大浴場があった。 利用することもできた。
でも、その時は蛇のことや釣りのことで頭がいっぱいだった。
結局、一度も入らなかった。
そこで宿へ電話を掛ける。
「少し早いんですが、14時頃チェックインできますか。」
ありがたいことに快く了承していただいた。
コテージへ着くと、最初にシャワーを浴びた。
熱いお湯が身体を流れていく。 3日分の汗と疲れが、一緒に流れていくようだった。
「ああ……生き返った。」 思わず独り言が漏れる。
部屋へ戻る。 エアコンが効いている。 ベッドがある。 ソファがある。
蛇の心配もしなくていい。
その安心感だけで、身体から力が抜けていく。
ソファへ腰を下ろす。 ふと時計を見る。
15時半。
予定では、16時には夕マヅメへ向かうつもりだった。
エサも買った。 仕掛けも準備してある。
行こうと思えば、いつでも行ける。
すると、もう一人の私が話しかけてきた。
「今日は、もうゆっくりすれば。」
「いや、夕マヅメは時合いだ。」
もう一人の私は、すぐに反論する。
「でも、朝も頑張ったじゃないか。」
「まだ釣れてない。」
「明日もある。」
「今日行けば釣れるかもしれない。」
「今日は休もう。」
心の中で、二人の私が静かに話し続ける。
時計の針だけが、ゆっくりと進んでいく。
16時。 出発する時間だった。
私は立ち上がろうとした。 でも、身体は動かなかった。
いや、動かなかったのではない。
動けなかった自分を受け入れた。
「今日は、もういいか。」
その一言が、自然に口からこぼれた。
夕食の準備を始める。
朝釣れた小さなピンギス。 メゴチ。 そしてスーパーで買った地元産の真鯛の刺身。
前日が天ぷらだったので、この日は唐揚げにした。

豪華とは言えない。 でも、不思議と満足だった。
一人で食べる夕食も、悪くない。
この頃になると、一人旅への不安はもう消えていた。
むしろ、この静かな時間が心地よかった。
食事を終え、ベッドへ横になる。
明日は浜名湖。 新しい場所。 新しい海。 新しい一日。
期待は、まだ消えていない。
そして今、この旅を振り返って思う。
あの日、ソファで 「今日は、もうゆっくりすれば。」 そう話しかけてきた、
もう一人の私。
あの時は、弱い自分だと思っていた。 でも違った。
無理をし続ける自分ではなく、 休むことも受け入れられる自分。
結果だけを追いかける自分ではなく、 旅そのものを楽しめる自分。
あの日、コテージで私に話しかけてきたもう一人の自分は、 今の私だった。
旅のあとがき
この日は釣果だけを見れば、七日間で最も悔しい一日だったかもしれない。
それでも、今思い出すのは魚ではない。
二十年以上付き合ってきたベテラン長老タープが「まだ現役だ」と教えてくれたこと。 そして、コテージのソファで出会ったもう一人の自分のことだ。
どちらも、「まだ大丈夫。」と私に語りかけてくれた気がしている。
旅のことば
「人は前へ進むために旅をする。
でも、ときには立ち止まることでしか見えない景色もある。」

旅の教訓 その五
「頑張り続けることだけが前に進むことではない。
立ち止まり、休む勇気も、旅には必要だ。」
でも、ときには立ち止まることでしか見えない景色もある。
第六章「釣れなくても、旅は続く」はこちらから <2026年8月26日公開予定>



コメント