東海シロギス珍道中(1)― 魚を追いかけた七日間、人との出会いが一番の釣果だった

キャンプ

第一章 旅は、鍵をなくしたところから始まった

遠征前日、私は何度も荷物の確認をしていた。

ロッドは積んだ。 リールも予備を含めて準備した。 クーラーボックスには保冷剤。
キャンプ道具一式。 BBQコンロ。 ランタン。 炭。 タープ。

忘れ物はない。 そう自分に言い聞かせるように、車の荷室を見渡した。

これから始まるのは、7日間の東海遠征。
目的はもちろんシロギスだ。静岡から愛知へ、そして遠州灘へ。

これまで写真や動画でしか見たことのなかった釣り場を、自分の足で歩き、
自分の竿で探る。 それだけで胸が高鳴っていた。

今回の旅には、もう1つ楽しみがあった。 キャンプである。

釣りを終えると、エステートが待つキャンプサイトへ戻り、炭を起こして夕食を作る。
夜は波の音を聞きながらビールを飲む。 朝は鳥の声で目を覚ます。

そんな1週間を思い描いていた。

旅というものは、目的地へ向かう前から楽しみが始まっているのかもしれない。

「あそこはどんな海だろう。」

「どんな人に出会えるだろう。」

そんな想像を膨らませている時間は、何度経験しても飽きることがない。

迎えた出発の日。 いつもより少し早く目が覚めた。

窓の外を見る。 空はどんよりと曇っている。
週間予報では、この先もしばらく雨マークが並んでいた。

正直、不安はあった。

「本当に釣りができるだろうか。」

それでも、天気を理由に旅を諦める気にはなれなかった。
自然が相手なのだから、思いどおりにならないのは当たり前だ。 だからこそ面白い。

そう自分に言い聞かせ、最後の荷物を積み込む。

さあ、出発だ。

……のはずだった。

「あれ?」

家の鍵がない。
さっきまで持っていたはずなのに、どこにも見当たらない。

バッグの中を探す。 ズボンのポケットを探す。 車のシートの隙間まで確認する。

ない。

もう1度家へ戻る。 机の上。 キッチン。 洗面所。 寝室。
思いつく場所を片っ端から探す。 それでも見つからない。

時計を見る。 予定していた出発時間は、とっくに過ぎていた。

「まさか、出発できないなんてことはないよな……。」
少しずつ焦りが大きくなる。

旅は始まってすらいない。 なのに、すでに予定が狂い始めている。
苦笑いしか出てこない。
そして30分ほど探し回った頃だった。 何気なく玄関の窓に目をやる。

「あった。」
鍵は、窓サッシの上にちょこんと置かれていた。

「なんでこんなところに置いたんだ?」

自分でもさっぱり思い出せない。 でも見つかった。それだけで十分だった。

ようやく車へ乗り込み、スタートボタンを押す。
静かにシステムが起動する。
いつものように、エステートが「さあ、行こうか。」
と言ってくれているような気がした。

 ナビには静岡県焼津市。

最初の目的地はイシグロ焼津店。 旅のスタート地点である。

高速道路を走りながら、心の中で1人笑っていた。

「今回は珍道中になりそうだ。」

この時は冗談半分だった。 しかし、この予感は見事なまでに当たることになる。

午後三時過ぎ。

予定どおり……とはいかなかったが、イシグロ焼津店へ到着した。

店内へ入ると、独特の匂いがする。 新品の釣具、配合エサ、ゴム製品。
釣具店にしかない、あの落ち着く匂いだ。

どこの釣具店へ入っても、この空気を吸うと自然とテンションが上がる。

「これから釣りが始まる。」

そんなスイッチが入る瞬間でもある。

イシグロ焼津店で待ち合わせていたのは、Sさんだった。
Sさんは、以前同じ会社で働いていた元同僚である。
現役時代、同じ部署の釣り好きの仲間たちと休日になるとよく釣りへ出掛けていた。

その中でもSさんとは、何度も一緒に竿を振った釣り仲間だった。
退職後、Sさんは結婚を機にご主人の転勤で焼津へ移り住んでいた。

それ以来、なかなか会う機会はなく、久しぶりの再会となる。
今回、東海方面へシロギス釣りの旅を計画した時、

「せっかく焼津を通るなら、久しぶりにSさんと釣りをしたい。」
そう思い、連絡を取った。

旅の始まりに待っていたのは、懐かしい釣り仲間との再会だった。

「今日はどうでしょうね。」 「雨が心配ですね。」

そんな何気ない会話をしながらエサを選び、投げ釣り用天秤を購入する。

旅先で誰かと待ち合わせをして、一緒に釣具店を歩く。 それだけでも、
遠征の楽しさを感じるひとときだった。

買い物を済ませ、いよいよ今回最初の釣り場「親水公園ふぃしゅーな」へ向かう。

車を走らせながら、私は何度も海の方へ目を向けていた。

初めて見る焼津の海。 この海が、7日間の旅の始まりを静かに迎えてくれていた。

車を走らせること、およそ30分。
最初の目的地である親水公園ふぃしゅーなへ到着した。

ここは以前から気になっていた場所だった。
Googleマップやホームページで何度も写真を見て、
「広々とした釣り公園」というイメージを膨らませていた。

ところが、実際に立ってみると、その印象は大きく違っていた。
もちろん悪い意味ではない。

写真というものは、どうしても一瞬を切り取った景色になる。
実際の海には、風があり、潮の匂いがあり、波の音がある。
空の色や雲の流れまで含めて、その場所の雰囲気なのだと改めて感じた。

「やっぱり、現地へ来てみないと分からないな。」

旅に出るたび、私は同じことを思う。 だから、釣りはやめられない。

堤防にはサビキ釣りを楽しむ親子や、
クロダイを狙うフカセ釣り師の姿がちらほら見える。

この日は土曜日。 本来ならもっと多くの釣り人で賑わっていても不思議ではない。
しかし、思っていたほど人影は多くなかった。

空を見上げると、厚い雲が空一面を覆い、
今にも雨が降り出しそうな重たい空模様だった。

「やっぱり、この天気だからかな。」

そんなことを考えながら海を眺める。

釣り人というのは正直なもので、穏やかな晴天の日には自然と人が集まり、
天候が崩れそうな日には足が遠のく。

だからこそ、この日の海にはどこか静かな時間が流れていた。

波の音だけがゆっくりと響き、
旅の始まりを迎える私を静かに迎えてくれているようだった。

「いつ降り出してもおかしくないな……。」

風も少しずつ湿り気を帯びてくる。

急いで準備を始めた。

この旅、最初の1投。 何度経験しても、この瞬間だけは少し緊張する。
エサを丁寧に付け、軽く深呼吸をしてキャスト。
オモリが着底し、ゆっくりとサビく。 竿先に神経を集中させる。

すると、すぐに「コツッ」と小さなアタリが伝わってきた。

「早い!」
期待を込めてリールを巻く。 旅の1尾目。 シロギスだったら最高のスタートだ。
そんな期待とは裏腹に、姿を見せたのは小さなヒイラギだった。

「君だったか。」

思わず笑ってしまう。 本命ではない。 それでも、この旅で最初に迎えてくれた魚だ。
丁寧に針を外し、海へ帰した。

その後も何投か繰り返す。 アタリはある。 しかし、本命らしい反応はない。
周囲を見渡しても、大きく竿が曲がる様子は見られない。

今日は海も静かだった。 いや、静かすぎたのかもしれない。
そんなことを考えていると、ポツッ。 手の甲に冷たいものが落ちた。

雨だった。

最初はほんの数滴。
しかし、空を見上げれば、もう我慢できそうにない雲が頭上を覆っている。

無理をする理由はない。 旅は始まったばかりだ。

「今日はこのくらいにしておこう。」
ロッドをたたみながら、自分にそう言い聞かせた。

釣果だけ見れば、決して満足できる初日ではない。
けれど、不思議と落胆はなかった。
むしろ、「これから何が待っているのだろう」という期待の方が大きかった。
すると、そこへSさんのご主人がやって来た。

「これ、良かったらどうぞ。」

そう言って差し出してくださったのは、本マグロの刺身だった。
思わず「えっ、本マグロですか?」と聞き返してしまう。

屋根のある場所へ移動し、みんなでいただく。

厚めに切られた刺身を口へ運ぶと、脂の甘みがゆっくりと広がっていく。

「これは美味しい……。」

釣り場でこんな贅沢な時間が待っているとは思ってもいなかった。
魚を釣りに来たはずなのに、魚をご馳走になる。 なんとも不思議な気分だった。

その後、「せっかくだから夕飯も一緒にどうですか。」と声を掛けていただき、
ご厚意に甘えることにした。

初対面や久しぶりの再会という堅苦しさはすぐになくなり、
釣りの話、道具の話、旅の話で盛り上がる。

笑い声が絶えない。 こういう時間が、1番好きだ。

釣り人同士は、魚が釣れても釣れなくても話が尽きない。
 同じ趣味を持つ者同士だからこそ、
初対面でも昔からの知り合いのような距離感になる。

これも釣りの魅力なのだろう。

食事を終える頃には、外はすっかり暗くなっていた。
そして、もう1つありがたい情報を教えていただく。

「今日は車中泊じゃなくて、『くろしお』に泊まったらどうですか?」

紹介していただいたのは、宿泊もできるスーパー銭湯 「エキチカ温泉・くろしお」 だった。

雨が降る予報だったこともあり、これは本当にありがたい提案だった。
もし予定どおり車中泊をしていたら、雨の中で荷物を広げることになっていただろう。

紹介された「エキチカ温泉・くろしお」は想像以上に快適だった。

広いお風呂で旅の疲れを流し、個室ブースでゆっくり休む。
静かな空間で横になると、ようやく「旅が始まったんだな」と実感が湧いてきた。

初日はヒイラギ1尾。 シロギスの姿を見ることはできなかった。
それでも、不思議なくらい心は満たされていた。

人の温かさに触れ、美味しいものをいただき、雨をしのげる場所まで教えていただいた。

釣果だけでは測れない、そんな1日だった。

布団代わりのブランケットを掛けながら、私は翌日の天気予報をもう1度確認する。
画面には、相変わらず雨マークが並んでいた。

「まあ、なるようになるか。」
そうつぶやいて目を閉じる。

旅はまだ始まったばかり。

このときの私は、翌日から何度も天気予報とにらめっこすることになるとは、
まだ知る由もなかった。

旅のあとがき

旅へ出ると、「人の親切」がいつもより心に染みる。

もしSさんご夫婦とお会いしていなければ、本マグロを味わうことも、
「くろしお」を知ることもなかっただろう。

そして、この夜を思い返すたびに感じるのは、
「旅は一人でも、人は一人では旅をしていない」ということだ。

道を教えてくれる人がいる。

「今日はどうだった?」と声を掛けてくれる人がいる。

「一緒に夕飯でも」と誘ってくれる人がいる。

その小さな親切が、旅の思い出を何倍にも豊かにしてくれる。

初日の釣果は決して誇れるものではなかった。

それでも、心のクーラーボックスには、魚ではなく、
人の温かさがたくさん詰まった一日だった。

そして私は、この旅で初めて気づき始める。

本当に追いかけていたのは、シロギスだけではなかったのかもしれない。

旅のことば

「旅は予定どおりにいかない。だから、あとになって思い出になる。」

旅の教訓 その一

旅とは、目的地へ向かう時間だけではない。
そこへ向かう準備をしている時間も、すでに旅の一部である。

第二章「雨を受け入れた日」はこちらから <2026年8月18日公開予定>

コメント

タイトルとURLをコピーしました