第二章 雨を受け入れた日 ~釣り人は、自然には勝てない。それでも旅は続いていく。~
朝、目を覚ますと、
昨夜泊まった「エキチカ温泉・くろしお」はまだ静かな空気に包まれていた。
天気予報は、今日と明日は雨。
本来なら前日に釣りをした「ふぃしゅーな」で朝の時合いを狙い、
午前10時頃まで竿を出してから伊良湖へ向かう予定だった。
しかし、予報は無情にも雨を告げている。
「さて、どうしたものか……。」
旅に出る前は、天気予報など一つの情報でしかなかった。
しかし旅の途中では、その情報一つで一日の予定が大きく変わる。
しばらく考えてみたものの、答えは出ない。
考えても空は晴れない。
そう思い、とりあえず「エキチカ温泉・くろしお」を後にし、
朝食を食べるためマクドナルドへ向かった。
今振り返れば、この時すぐ伊良湖へ向かっていれば、
もう少し違う一日になっていたのかもしれない。
しかし、その「遠回り」も旅には必要だったのだと思う。
朝7時半。
車を走らせながら見上げた空は、一面の曇り空だった。
今日から始まるキャンプ生活。
まず考えたのは釣りではない。
「雨が降る前に、キャンプサイトを完成させなければ。」
そのことばかり考えていた。
九時頃、道の駅「あかばねロコステーション」に立ち寄り、
海を眺める。 思っていたほど波は高くない。

「意外とできそうだな。」
少しだけ希望が湧いた。
そのままキャンプ場へ向かう途中、
翌日以降の本命ポイントである日出の石門へ立ち寄ることにした。

駐車場には数人の投げ釣り師が並んでいる。
「午前中だけなら、やれるかもしれない。」 そう思い、予定変更。
竿を準備した。
先に釣りをされていた方へ声を掛け、様子を伺ってみると、
「3色半くらいでポツポツですね。」 とのこと。
その言葉を信じて第1投。 着底。 ゆっくりサビく。
すると、すぐにブルブルッと小気味よいアタリが伝わった。
「これは……キスだ。」
慎重に巻き上げる。 波打ち際で姿を見せたのは、銀色に輝くシロギス。
しかも2匹。
ダブルヒットだった。
思わず笑みがこぼれる。

「今日はいける。」 そんな期待が胸をよぎった。
ところが、自然はそう甘くない。 その後は静まり返った海。
投げても、投げても反応は続かない。 結局、昼前には納竿した。
それでも、初めて立った場所でシロギスの顔を見られたことは素直に嬉しかった。
午後はキャンプ場へ向かう。 本来のチェックインは14時。
受付で尋ねてみると、
「準備ができていますので、今から入って大丈夫ですよ。」
ありがたい一言だった。 雨が降る前に設営を終えられる。
それだけで十分だった。
サイトへ車を乗り入れると、思わず周囲を見渡した。
静かだった。 いや、静かすぎた。
木々に囲まれたキャンプ場。 聞こえるのは鳥の声と風が葉を揺らす音だけ。
キャンパーの姿はほとんど見当たらない。
「貸切みたいだな。」
そう思う反面、人がいないキャンプ場というのは、どこか心細さも感じる。
曇り空が、その寂しさを少しだけ大きくしていた。
荷物を降ろし始める。
ソロキャンプとは思えないほど荷物が多い。
テーブル。
椅子。
タープ。
クーラーボックス。
釣具。
一つひとつ運びながら、
「一人なのに、ずいぶん大荷物だな。」と苦笑いした。
すると、向かいで撤収作業をしていた男性が笑顔で話しかけてきた。
「今日からですか?」
釣りやキャンプの話をしていると、その方が急に真面目な顔になった。
「そうだ、一つだけ気を付けてください。」
「このキャンプ場、蛇が出ますよ。」
「やっぱり山ですから?」
そう返すと、その方はあっさりと言った。
「いや、実は昨日、足を噛まれたんですよ。」
一瞬、驚いてしまった。
すると、そのキャンパーのお父さんは笑いながら続けた。
「まあ、裸足でサンダルを履いていた私が悪いんですけどね。」
「えっ!?」
思わず聞き返す。
「マムシだったらどうしようと思って、
スマホで調べながら二時間くらい様子を見てたんですよ。」
「何ともなかったので、普通の蛇だったみたいです。」
……いやいや。
病院へ行きましょうよ。
心の中で思わずツッコミを入れた。
親切で教えてくださっていることは分かる。
でも、正直なところ、今その情報は聞きたくなかった。
実は私は、この日はテントを張る予定ではなかった。
夜は車中泊。
キャンプ場に備え付けられたテーブルとベンチのあるスペースへタープを張り、
そこを生活の拠点にするつもりだった。
しかし、その話を聞いた瞬間、考えが変わる。
「できるだけ地面から離れていたい。」
そう思った。
サイトには高さ六十センチほどの高床式デッキがある。
「今日はここをリビングにしよう。」
急きょ予定変更である。
ところが、そう簡単にはいかなかった。
持参したウィングタープのポールの高さは約二メートル。
しかも、横幅が広く、高床式デッキのスペースだけでは収まらない。
そのため、タープのポールはデッキの外側、地面に立てるしかなかった。
計算すると、タープの高さは百四十センチほど。
しかもウィングタイプなので中央はさらに低くなる。
中へ入ると、腰をかがめなければ歩けないほど窮屈だった。
「これは失敗したかな……。」
そう思いながらも、蛇への恐怖には勝てない。
ロープを張り直し、テーブルを置き、椅子を並べ、
何とか居心地のよい空間を作っていく。
まるで秘密基地を作っているようだった。
設営が終わった頃、空から一粒の雨が落ちてきた。
「ああ、間に合った。」
思わず空を見上げた。
あの蛇の話を聞かなければ、
今頃は地面のテーブルで慌てて雨宿りをしていたかもしれない。
そう思うと、不思議と感謝の気持ちさえ湧いてきた。
しかし、試練はまだ終わらない。


防風林に囲まれたこのキャンプ場は、風こそ穏やかだったが、
その代わり虫が多かった。
「虫は多いですよ。」
事前に聞いていたが、想像以上だった。
設営を終え、一息つくと、目の前には無数のコバエが舞っている。
しかも荷物を運ぶ間に、車の中へ五、六匹入り込んでしまっていた。
「今日は一緒に車中泊か……。」
苦笑いするしかない。
蛇を警戒していたら、今度はコバエとの戦いである。
夕方、買い出しに出掛けたスーパーで、真っ先に向かったのは日用品売り場だった。
肉でもビールでもない。
コバエホイホイである。
旅先で最初に買う生活用品がコバエ対策になるとは、出発前には想像もしなかった。
夕方、雨は降ったり止んだりを繰り返していた。
タープの下で炭を熾す。
この日使ったのは、本来持ってくる予定だったコンロではない。
出発前の鍵騒動で積み忘れてしまい、代わりに車へ積んでいたのは、
友人A君が空き缶を加工して作ってくれた小さなBBQコンロだった。
「一応持って行けば。」
その一言で、車へ積み込むことになったコンロである。

この時はまだ知らない。
この小さなコンロが、この旅の最高の相棒になることを。
炭火の上では牛肉が焼ける。
豚肉も焼ける。
そして昼に釣ったシロギスを網へ並べた。

ジュッという音とともに立ち上る香ばしい匂い。
自分で釣った魚を、その日のうちに炭火で焼いて食べる。
それだけで十分幸せだった。
豪華な料理ではない。
でも、この塩焼きはどんな高級料理より美味しく感じた。
夜九時。
車へ戻り、マットを敷いて横になる。
雨音が屋根を優しく叩いている。
今日は予定どおりには進まなかった。
でも、不思議と嫌な一日ではなかった。
旅は予定どおりに進まない。
だからこそ、思いもよらない出会いがあり、思いもよらない工夫が生まれる。
そして、その一つひとつが、旅の思い出になっていく。
明日は、どんな一日になるのだろう。
そんなことを考えながら、私は静かに目を閉じた。
旅のあとがき
この日を振り返ると、印象に残っているのはダブルヒットでも釣果でもありません。
蛇に噛まれたというキャンパーの話を聞き、高床式デッキに生活拠点を移したこと。
思いがけずコバエと格闘し、スーパーで真っ先に「コバエホイホイ」を探したこと。
そして、友人A君が「一応持っていきなよ」と渡してくれた小さな缶コンロが、
夕暮れの食卓に温かな火を灯してくれたこと。
旅では、予定どおりにいかない出来事ばかりが起こります。
けれど、後になって振り返ると、心に残っているのは、
そんな”予定外”の出来事ばかりでした。
この日、私はシロギスを追いかけていたはずなのに、本当に手に入れたのは、
「知らない土地で自分の居場所をつくる楽しさ」だったのかもしれません。
旅のことば

「自然は敵ではない。付き合い方を教えてくれる先生だ。」
旅の教訓 その二
自然には逆らわず、楽しみ方を変える。
第三章「雨の海がくれた贈り物」はこちらから <2026年8月20日公開予定>



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